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ISBN978-4-88978-101-4 |
大津 昌昭著 |
四六判 500頁
定価 (本体2,500円+税) |
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芸三職 森川杜園 |
幕末から明治にかけて活躍した奈良人形師である。が、彼はまた、絵師であり、狂言師でもあった。 つまり三芸を職とした。
なぜ三つも芸を職としたのか。 激動の時代、それらの芸を、どのように磨き、花開かせていったのか。
本書は、彼自身、来た道をふり返り、語ったものである。 晩年のことは奥さんの回想となるが、もってこれを彼の自伝として紹介したい。
どうして私が杜園さんの元で語りを聞くことになったのか、まずはそのいきさつから述べておこう。
東京の学校に行っていたころのこと、春休みに郷里の静岡に帰ると、母の知人からわずかな間だけでも息子の勉強を見てやってほしいと頼まれた。茶商売の家。
座敷の床の間に何ともおもしろいものが置かれていた。高さ三十センチほどの極彩色の木彫りである。
のぞき込んでいると、母親がいった。
「奈良人形です。 高砂というそうです」
奈良人形とははじめて聞くが、それにしても見れば見るほどおかしな顔つきではないか。
頭に変な帽子をちょこんと載せ、驚いているのか、怒っているのか、大目玉をむき、大口を開け、何事か発声しているらしきにぎやかな形相である。 それにまた本体、人を写したにしてはずんぐりむっくり。 だるまのように丸いのに、羽織る衣装の面は広く、折り目が角ばり、鑿の入れ方が意外に深い。 動的、ともいえるが、それでいて何ともいいようのない静けさをもっている。
「おもしろい置物ですね」 ある日、父親に声をかけた。
「わたしも気に入っています。 作者は、杜園、と銘があります」
「いつごろの人ですか」
「これには嘉永二年と入れてありますが、いまの人です」
商用で上京した折り、上野で開かれていた内国博覧会に立ち寄ると、この人の作が出品されていて、いまの人だと分かったという。
「どういう人でしょう」
「さあ、そこまでは。妙技三等を受賞しているということで、すっかり満足して帰ってきてしまったものですから。 ああ、そのときのものがあります」
わざわざ目録を出してきて見せてくれた。
模造 手向山八幡宮の笑仮面・腫仮面 森川杜園
そうですか、とうなずいたものの、私は、それでもうよかった。 他に何か知ることがあったにせよ、この物の魅力はさらには探れまい。 むしろ謎の作者の謎の作品であるとした方がおもしろさは増す。
ところが父親の方は、私の質問をきっかけにそれで終らせておくことができなくなったらしく、譲り受けた質屋をたずね、質屋から問い合わせてもらったりなどして、この元の所有者が徳川慶喜さまのご家来衆であり、その前は京都のさる貴人のものであったことなど、分かったという。 作者は奈良の人。番地まで知ったという。
先生のおかげで、わたしもいい勉強をさせていただきました、と云われて恐縮してしまったが、そこまでされたとなると、私もこのまま聞き流してしまっては申し訳ないような気分になってきた。
それで夏休み、奈良をたずねることにした。
じつをいうと、私の興味は奈良というところの方にあった。 一度行ってみたいと思っていたのだ。中学のころ、古代史の講義で社寺の美術についていやというほど丸暗記させられた苦い思い出があるが、いまはそんなしばりは何もない。 ちょうど国文の授業で紀行文の課題が出されていたから、東大寺や興福寺、薬師寺や法隆寺など、名所だけでもぶらりめぐり、印象を綴ってみるのもわるくない。 東海道を陸蒸気が開通したばかりだから、これに乗るというのも楽しみの一つだ。
職人の口が重いのは定説だから、初日くらいはちょっとばかりこの人のお顔拝見、あとは足の向くまま一週間ほどゆっくり一人旅を楽しんでこれればいい―
そんな気楽な気持ちで、下着を詰めた背負い袋に帳面一冊押し込んだだけで、ぶらり出かけたのである。 明治二十四年のこと。
ところが結果、一か月余りにも及ぶ奈良滞在となった。杜園さんの語りがあまりにおもしろく、学校に帰らねばならないことなど忘れてしまうところだった。
聞き書きの帳面は何十冊にもなったが、それより何より、伺うほどに、私自身、人や物に対する見方や考え方の浅さを思い知らされるばかりで、異才と向き合っていた、と気づいたのは、迂闊にも帰りの車中においてであった。
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